最近の個人的流行は、読書と野外メモだ。
読書で言えば特に、コピーライトに関する本を読んでいる。
そこで、思うことは、「ネタはそこらかしらに落ちている。」ということ。
ぶっ飛んだように見える斬新で奇抜な新しい企画や考え方、文字や絵画だって、
本当は「普通のもの」の延長上にあるものだと思う。
本格的にぶっ飛びすぎていると、共感されることがないので、受け入れてもらえないものになるだろうし。
アーティストがしていることは、
「奇抜なものを作り出している」のではなく、
「当たり前のものをその人なりのオリジナリティな視点で切り取ったり、組み合わせている」のだと私は思う。
いまのわたしができること。
それは、視点を磨くこと、拾い集めること。
そして、たくさん見て聞いて感じること。
さてさて、硬いオハナシはここまで。
メモとえんぴつを持ってお外に出かけよう。
うたうあの娘に恋をして、
むかしの夢を思い出した。
いつの間に、頭ばかりこんなに賢くなったんだろう。
感情を、ドコの過去に置いてきちゃったんだろう。
ふと目を閉じると、重なる自分。
そこに笑顔はあった?
遠ざかっていく日々と、これからの未来。
いつまでも枯れない花はきれいよね。
でも、
そこに笑顔はあった?
目を開けると、うたうあの娘はさっき以上に輝いていた。
日々是空間論終電間近の改札前駅前の改札。
たいていそこには小さな広場があり、基本的には駅の出口で乗車券や定期券の回収箇所である。
しかし、その駅の改札前では毎日様々な人間物語が繰り広げられている。
特に終電が迫っているときは、、。
改札前の柱の下で泣いている女の子がいる。
通りすがる人たちもなんとなく気になるのだろう。ちらっと横見しては通り過ぎていく。
女の子はしきりに鼻をすすりながら、携帯を握り締めている。
携帯を覗き込んでは、また泣き、また覗く。
世の中の涙には、うれし泣きというものもあるが、こればかりはそうは思えない涙だ。
すると何か突然吹っ切れたかのように、改札に向かって走っていく。
その顔からは、涙はもうなかった。飲み会帰りなのだろう。
ほろ酔い気分の学生さんたちがわいわいと会話をしながら、やってくる。
「ほな、また明日ねー。」「あ、言ってたやつ、持ってきてやぁー。」「おっけー!!」
最後の挨拶もそぞろに、それぞれの乗り場に向かっていく。
また明日も会えるという、その当たり前のようで実は特別な約束が、とても自然にかわされていく。今日はさりげなく終わっていく物語も、いつか振り返ったときに懐かしい物語になるんだろう。一定の距離を保って歩いてくる男女ふたり。
改札の前で、向き合って何か話をしている。
笑顔で手を振りながら改札の向こうに歩いていく女の子に向かって、恥ずかしげに手を振る男の子。
きっと次、ここで2人を見るときには、もっと寄り添って歩いているんだろう。たくさんの物語が繰り広げられる、終電間近の改札前。終電は、今日というイベントの終わりを告げるアラームであり、
改札前は、その終わりを自ら受け入れるために設けられた節目なのだと思う。
いわゆる決断を下す場所。
だから、改札前には物語が生まれるのだと思う。
人間というものは、終わりが見えて初めて自分と見つめ直すものなのか?終わりが見えたときの時間が生む、空間。
普段はただの改札口が、この場合だけは、「それぞれの大切な場所」となる。
たくさんのものを見てきたと思う。
見なくていいものも、見てきてしまったと思う。
いっぱい傷ついたし、傷つけてきたと思う。
差し伸べてくれる、暖かい声、大きな手、
何も目に入らなかった。
行く先を邪魔するものを振り払って、これが私の人生だと生きてきた。
先に、前に、進むことに必死だった。
今までとても、シアワセだったんだと思う。
多くの人の愛に守られていたから、笑って生きてこれたんだ。
気づいた瞬間に、
感謝のきもちがあふれてきた。
いつかに置き忘れてきた、宝物たちが輝きだした。
わたしが大切にしたいもの、大切にしたい考え方、
大切にしたい人たち、
大切にしたい
わたしの将来。
わたしに必要なもの。
暗闇の中に、光がさした気がした。
この光を見失わないように、ゆっくり歩いていきたいと思う。
オススメの歌があります。
この歌が、とても気に入りました。
特に歌詞がよい。
>歌詞
自分のこころのありかを。
なぜ生きているのかを。
どうしようもないとき。
なにのせいにもできないとき。
日々の中で見失いそうになったとき。
あなたとこの先、ずっと一緒にいるのは
他の誰でもなく、
あなた自身です。
どんなときでも君は、そこに居ます。