2021年8月、建築家の郡裕美さん(スタジオ宙一級建築士事務所 )から個展のお誘いメールが届いた。昔取材をさせていただいてから、ちょこちょこと展示のお誘いをくださる。こういうのは、実はとてつもなく嬉しい。個展名は、『郡裕美展 壁の向こうへ』。コロナ禍のせいか、日常の中から「アート」が消えてしまっていた私にとって、ギャラリーへと足を伸ばすきっかけになった。

展示会場は、大阪の裏なんばのあたり。ユニバース、味園というTHE大阪なんばのエリアを通過。ユニバースの前には、長蛇の列が。スマホのGoogleマップが指し示す場所を目指していく。今日はライブが有るのかしら?行き先は、ギャラリーだったよなと、現在地に多少不安になりながら、進む。「ギャラリー日本橋の家」。道路脇に、ガラス窓が緑色にぼんやりと光る、縦に細長いコンクリート打ちっぱなしのビルが見えてきた。ネオン街・提灯・煙と騒がしい街に、落ち着き払った静けさを抱えて佇んでいた。

3階からの様子。緑色に発光する蛍光管が摺りガラスの窓から透けて見える

3階からの様子。緑色に発光する蛍光管が摺りガラスの窓から透けて見える

やばい、17時15分だ。17時から、郡さん直々に作品紹介をしてくださるという。その後18時からは、建築家・島田陽さん(タトアーキテクツ)との対談トーク・公開インスタライブも控えている。久しぶりにアートに触れる。なんとなく気恥ずかしさがあり、一度はビルを通り過ぎる。展示会となると、なんとなく緊張してしまう。いやいや見に来たんだろと小心者に言い聞かせ、少しうつむき加減で緑色に光るビルの中に早足に駆け込んだ。

3階からの様子。緑色に発光する蛍光管が摺りガラスの窓から透けて見える

3階からの様子。緑色に発光する蛍光管が摺りガラスの窓から透けて見える

中では、すでに作品紹介が始まっていた。駆け込みセーフ!郡さんは私に気づくと少し微笑んで、参加者への説明を続けた。そう、ひさしぶりにアートが見たいと思ったのは、年齢を感じさせない少女のような彼女のキラキラ輝く瞳に惹かれたからだ。

「昨年からのコロナ禍で強いられるステイホームやソーシャルディスタンスにより感じる閉塞感や、自分が社会との間に生み出してしまう、物理的ではない境界や壁を浮き彫りにしたかった」と郡さん。作品を一つ一つ巡りながら、その作品が生まれた背景を語った。

間口は小さいが、奥に広いギャラリーは、3階建で、中央には吹き抜け屋根の空間が存在する。周りの喧騒からは、乖離された空間だ。コンクリートと階段に囲まれ、周囲には複数の部屋が配置され、少し迷路に迷い込んだような感覚にある。コンクリート建築の代名詞である安藤忠雄さん建築の元住宅を改修したのだという。ほおおおと感心しながら、コンクリートに囲まれた吹き抜け屋根を見上げる。なんばの空が四角く切り取られ、鮮やかに青い。

天井は吹き抜け

天井は吹き抜け

本展覧会のテーマと同題である《見えない壁》は、ウール糸を天井と壁面に張り巡らせた作品。糸と壁面がつくる間に、一見壁があるように見えるが、もちろんそこにはない。「こういう形状のものは、壁だ、ドアだ」という固定概念により壁に見えてしまうのだ。その間を通過することは誰も止めていないのに、なぜか躊躇してしまう。心に生じる小さな違和感。乗りこえた人にだけ届く、小さなメッセージも。そこには、「壁を作っているのは自分。乗り越えて、壁の先にある世界を見てほしい」という彼女の願いが込められている。

《見えない壁》2021年 インスタレーション作品

《見えない壁》2021年 インスタレーション作品

もうひとつ興味深かった作品は、吹きガラスの中にキセノンガスを入れて、両端から電圧を加えた《Matsukaze》。ガラスの中に築かれている空間と外の空間。彼女の根幹にあるのは、「見えないものが見たい」という興味なのだろう。ガラスの中に暮らし、ガラス越しに見えているが決して行けない外の世界に、思いを馳せる“何者か”の気持ちになり、思いを馳せてみた。電圧が音を立てている。茶の湯で、湯が湧く際に茶釜が奏でる音を「松風」というそうだが、この音と似ていることから命名したそうだ。

《Matsukaze》2009年 インスタレーション作品

《Matsukaze》2009年 インスタレーション作品

新作は、この現場に足を運び、籠もり、うんうん唸って生み出したそうだ。「展示が完成に至るまでに、限りない数のスタディができました」。スタディとは建築用語で、設計を行う際に設計内容を確認するために作る簡易模型のこと。けれど彼女の中では、「思考の過程を残すもの」で、決して「展覧会の準備」ではないのだそうだ。「展覧会というゴール自体を、発見や思考の場として楽しんでいます」。完成するまでの脳の動き・アイデアのゆらぎという過程そのものを体験するために、展示をしているかのような印象を受けた。

この展覧会のための新作が2点と、美術家としての過去制作のインスタレーション作品が数点展示されていた

この展覧会のための新作が2点と、美術家としての過去制作のインスタレーション作品が数点展示されていた

※展示会『郡裕美展 壁の向こうへ』(2021年9月4日)にお邪魔させていただき、フリーでまとめました。エッセイを書くつもりが、レポートのようになりました。

次回へ続く。

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書けないのは、書きたくないからではない。

私は今までどんな世界にいたんだろう。コロナで自主規制の日々。たった1ヶ月2ヶ月前程度のことのはずなのに。パラレルワールドに来てしまったのだろうか?なんだか全てが嘘くさい。演劇?そんなブラックユーモアが出てくるくらい、毎日が変わった。

なんとなく陸続きの日々が続いている。言葉にしてしまうと誤解が生まれそうだけど、朝目覚めても昨日の続き。その翌日もその続き。終わらない夢の中にいるみたいだ。

とりあえず、PCに向かっている。でも書く手は止まっている。職業柄なのか習性なのか、情報収拾を毎日している。ここが現実なのか確かめたくて、newspicksや経済ネットニュースなどで、経済界やマネジメント勢の発言にしがみつく。皆が今目の前に起こっている危機について、しっかりと口調を揃えて言う。「これまでの世界とは変わるだろう」と。…ああ、やっぱりここは現実ではないのか。なんて、リアルな未来を求めたはずの情報が、逆に、掴めない夢遊じみた感覚をつれてくる。

2

確かにそうだ。
知り合いの個人飲食店やショップは閉店が始まっている。ネット上で仕事仲間と会話をすると事業が危ういから融資を真っ先に借りたとか、自宅待機が周りに増えてきたとか、食事どうしてるの?とか。紛れもない現実だ。ふと思い立って知り合いに「元気にしてる?」とかいう、気軽な連絡がしにくくなった。当たり前だったものが、もはや過去のものになってきている。医療機関の人たちは必死に戦っている。

リアルを伝えるニュースよりも、自分を通過した情報にやっと心が動き出した。想像力だけだった。

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取材に行くと、気づきが多い。

『何か特化したもの』を持っていて、
それを自分の中心軸に据えて、
『こうであってほしいと思う世界や成し遂げたい表現』
を実現しようと目標を掲げて具体的に動いている人。

キラキラさせている目に出会うと、いつも、希望を見た気がする。
目標のある人生には、未来に不安を感じないだろう。

ぼんやりでもいいけど、自分の未来について考えた方が、
未来を楽しみたい人間としては、必要なのかも。

自分以外のものに埋められがちな時間の中から、
なんとかして余白を自分でつくっていかなきゃね。
30分でも10分でもね。
と自分に言い聞かせた。
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どうもこんにちは。
コモコモカフェ店主です。
さっそくですが、学びました。

紙は行動を記録する媒体である。ということです。

てか、これ一行で終わってしまうのですが、ちょっとめんどくさく説明と追記をします。

文字を書く仕事をしておりますが、大きく分かれ、紙媒体、ウェブ媒体とありますが、
ウェブメディアの場合、少し寂しさと愛情の薄さを若干感じてしまいます。(年のせいではない)
分析してみると、それは、ウェブは上書き修正とリセットが簡単にできるという機能があるからなのかもしれません。

けれど、人間は(特に私のような人間は)「きらいだー!」と言ってしまったらもう取り消せません。
そうなんです。人間は上書き修正が簡単にはできません。
「あんなやつと結婚するんじゃなかったー!」と思っても、簡単にリセットもできません。
そう、人間は、積み重なって生きていく生きものなのです。
だからそれに似た媒体、「紙」に愛情を持ってしまうのです。
それは、紙は行動を記録する媒体である。からです。

例えば、紙を折り曲げてしまうと型が残って、もとの状態には戻りません。
図書館で借りた本に線が引かれていることがありますが、これもそうです。
一言で言うと、とても人間らしい媒体なのです。
軌跡や履歴は、とても魅力的だと思います。

だからこそ、やっぱり紙を愛してしまいます。

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急に雨が降ってきたので、近くのカフェに駆け込んだ。
一杯のアメリカンコーヒーを注文して、席についた。
コーヒーは薄めの方が、包まれている感じがして好き。

座ってから気が付いたが、
カップル、いや、どちらかがカップルになりたいと思っている様子の男女が隣にいた。
2人の側にはギターケースと、折り目があちこちについた譜面が机の上に置かれていた。

「ボーカルっていうもんはな。」
少し大きめの声で話す男。
女は、うんうんとうなづきながら、水滴のついたアイスコーヒーにさされたストローをかんでいた。
「美味しいおでんの大根が食べたいと思って、大根を育てようと思ったら、まずは雑草抜きからなんや。そんなもんやで。」
男は、女にそんな話をしていた。
なかなかいいことを言うなあと思いながら、ふと、机上の譜面をのぞき見た。

青い色のスコア。

スタンダードジャズハンドブックだ。

気づいた瞬間、記憶が過去に旅していた。
この”青本”という言葉をよく聞いたのは、いつ頃だったろうか。

こないだ安西安丸さんの展示で購入した書籍のなかに、一節のエッセイが載っていた。
「ハーレムの夜」という題名で、ニューヨークの「ヴィレッジ・ヴァンガード」に初めて訪れた時に、
憧れのセロニアスモンクに出会った時の話だった。
「セロニアス・ヒムセルフ」を生で聴いた時の感動が、活き活きと描かれているものだった。

そういえば、
同じような折り目だらけの青本を、私は過去にも見た事がある。
一度ではない。
何回も、そしてその音も。

今その音は、どんな譜面を追っているんだろう。

どうしても、セロニアス・モンクが聴きたくなった。

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